エッセイ
島清らさ、天然の癒し (2002年2月21日)
前回の更新からやっと更新できました。約四ヶ月ぶり。(深く反省しています) 前回の日記と重なりますが、見に来てくださっていた方、本当にごめんなさい。基本的にこのページは沖縄に旅に行くか、藤木さんの芝居を見にいかないと更新できないという苦しさがあります。
さて、更新内容ですが、1月31日に沖縄・具志川市で行われた公演会の模様をアップしました。古謝美佐子さんとの共演で、藤木さんの芝居と古謝さんの歌が同じ舞台で見られる(聴ける)なんて、ものすごい贅沢な公演でした。古謝さんの歌は今までCDでは聴いていましたが、生の歌で聴くのは初めて。聴いていると歌の世界に自然に包まれているような感じで、まさしく「天然の癒し」でした。
藤木さんは、今年は公演を続けて行われる様子。また見に行きたいと思います。今回はコザ(沖縄市)に宿泊しました。24時間喫茶で食事したり、町をぶらぶら歩いたり…街の雰囲気を少しだけ味わえたような気がしました。
ちゅらさんを想う (2001年10月13日)
約二ヵ月ぶりに、やっと更新した。カウンターを見ると、少しづつだが数字が上がっていて、見に来てくださった方には本当に心苦しい思いだ。このHPを立ち上げたときから、いずれネタ切れになることはわかっていたが、新しいコンテンツを作るのに苦労している。
さて、今回のコンテンツは”『ちゅらさん』を想う”。毎日楽しみにしていたドラマも終ってしまった……。このHPを作ったきっかけは、『ちゅらさん』にはまり、藤木さんのひとりゆんたく芝居を見にいったことだったこともあり、自分自身の『ちゅらさん』への感想をまとめてみたかった。なぜ『ちゅらさん』が好きだったか、と考えると、”生命の尊さ”というメッセージに感動し、”人と人とがふれあうこと”の素晴らしさを再認識させてくれたからだと思う。「一風館みたいなアパートに住んでみたい」「ゆがふのような店があったら常連になりたい」という声を耳にする。私も同じ気持ちだ。
最近はニューヨークのテロ事件、それに対するアメリカの報復、と世相は悪い方向に進んでいると思う。こんな時代だからこそ、『ちゅらさん』の持つテーマをもう一度考えても良いのではないか? でも、これだけ『ちゅらさん』が人気を博した日本も、まだまだ捨てたもんじゃない、とも思っている。
台湾に残った曾祖父 (2001年8月15日)
私の祖母は米国の日系二世だったが、その父親は早世し、親戚がいる岡山に移り住んだ。近所の素封家の息子に見初められてプロポーズされたらしいが、アメリカ生まれの女性が日本の旧家ではやっていけるはずはないと、当時台湾にいた親戚筋の祖父のところに嫁いだのだった。
さて、祖父の父親(私にとっては曾祖父)は、とてもユニークな人だったようだ。若い頃、日露戦争に徴兵で取られそうになったが、子供がいない家の長男に養子に行き、兵役を逃れたそうだ。(ところが、祖父は軍人になったのだから、皮肉なものだ) 養子に行った家は貧しくて、学校にも行かせてもらえず、警官になって当時植民地だった台湾に渡った。ところが祖父はここですっぱり警官をやめてしまう。元々反権力的なところがあって、警官になったのは台湾に渡るためだった。どうも、日本の社会が好きでなかったらしい。
そして台湾で私の祖父、さらにその娘である母が生まれた。やがて日本は戦争に負け、家族は日本に引き上げていったが、曾祖父は台湾に残り、知り合いの台湾人の家に身を寄せ、そこで生を全うした。ちょうど8月15日、NHKで終戦記念日の特別番組をやっていた。その中で、ある外国人の日本研究家は、「日本の社会は非合理的な方向(例えば第二時大戦)に国が向かっていっても、それにブレーキをかけることができないという致命的な欠点がある」というようなことを話していた。
集団で動く社会、個人の動きに規制が大きい社会であり、大勢にさからうことができない社会ということなのだろう。私達は、なんだかんだ言っても、特定の文化、社会や国家に、帰属することによって心と生活の安定を得ている。だが、曾祖父の軌跡を考えると、国家というものを逆手に取り、そこに依存せずに生きてきたように思う。100年も、200年も時代を先駆けていたコスモポリタンだったのか? それとも明治という時代が生んだ異端児だったのか?
徴兵を逃れたが、敗戦国民の身で台湾に残ったということを考えると、単なる臆病者ではなかったような気がする。生きていればこその人生、死んでしまっては何もならないと考え、国家のために死ぬよりも、個人として生きることに価値をおく人だったのではないだろうか。
日本に帰らなかったことにはいろいろな理由があるのだろうが、すっかり台湾に馴染んでいて、日本に帰るという選択肢は、曾祖父にはありえなかったのかも知れない。だが、曾祖父はどんな気持ちで息子や孫を見送ったのだろう。そして何を考えながら台湾で余生を過していたのだろうか。
ポークたまごを食べ (2001年7月31日)
先日三線を聴いた後、福岡・天神の”わしたショップ”に足を延ばし、SPAMのポークを買ってきた。その翌日、ポークたまごを作ってみた。まず生野菜を刻み、次に缶詰を開ける。肉の塊がスーッと出てくる。厚切りにしてフライパンで焼き、その後玉子焼を作る。今回は目玉焼きを考えていたのだが、結果はスクランブルエッグになってしまった……。食べてみると、結構美味しいが、かなり塩分が強い。一応”減塩”の缶を買ってきたのだが……。
だが”ポーク”自体は初めてではなかった。私の祖母は日系二世で、結婚して日本に戻ってきたという人だ。その弟(私の大叔父)も戦時中に日本に戻ったが、当然英語ができたわけで、戦後は米軍キャンプで働いていた。その昔、東京・練馬のグランドハイツに遊びに行ったことがあり、馬鹿でかい冷蔵庫などがあったことを思い出す。
祖母の母(曾祖母)は、戦後しばらくアメリカに留まり、ときおり物資の仕送りをしていたらしい。そんなわけで、母方の家族はコーヒー、パン食、肉の缶詰といったものに馴染んでいて、その食文化は現在に至るまで微妙に引き継がれている。
”ポーク”自体は、ここ十数年ほど食べてはいなかったが、「ポークたまご」で、幼い日の祖母や大叔父のことなどを思い出して懐かしくなった。
三線を聴く (2001年7月28日)
7月26日、福岡市の近くまで出かけて、三線のミニコンサートを聴いてきた。『ちゅらさん』や『ナビィの恋』で三線に親しみを持ち、一度生で聴いてみたいと思っていた。
演奏した金城安紀氏は、かの登川誠仁の孫弟子で、登川氏からも直接指導を受けたそうだ。まだ若い方(30代?)で声も三線の響きも艶やかだった。(三線というと、『ナビィの恋』の登川氏の枯れた味わいのイメージがあった)
聴衆は、といえば、私を含めて初心者が殆どで、リズム感もノリもいまいち。手拍子が三線のリズムに合っていなかったような気がした。(金城氏も若干歌いにくそうだった) 最後のカチャーシーも立ち上がって踊るところまでは行かなかったが、聴衆を考えると無理だったかも知れない……。
しかし、生で三線と歌が聴けたのは良かった。良く耳にする「芭蕉布」や「花」でも、本場の歌手の方の歌唱で聴くと全然違う。節回し、微妙なリズムの揺れ、抑揚、発声、低音から高音への移行の仕方……。
初心者の聴衆も音楽そのものには感激していて、金城氏には惜しみのない拍手が送られていた。
ホームページ開設 (2001年7月20日)
「沖縄・自分を見つける旅」を開設した。旅を重ねるうちに心惹かれるようになった沖縄。『ちゅらさん』を見はじめてその思いが強くなった。さらに、藤木勇人さんの舞台を見に行き、その感動を書き残しておきたいと思ったのが、このHP開設のきっかけとなった。
自分の中で沖縄についてどの程度理解があるのかというと、あまり自信が無く、今はただ沖縄についての本を読んだり映画を見たりして、知識を広めようとしている。藤木さんの舞台についても、彼が何を表現したいのか、自分なりに読み取ろうと思ったが、まったく自信が無い。このHPを開設して以前から藤木さんを見続けている方々の目に触れると思うと、冷や汗が出る思いだ。それでも観劇記を書いたのは、心打たれるものがあったということだ。
私は始めから沖縄が好きだったいうわけではない。最初に訪れたとき、街並の雰囲気や植物が、昔滞在していたリマに似ていたのがきっかけだ。私の心の中に今も深く残る南米・ペルー。人々の大らかさや風土は、どこか南米を思い出させるものがある。(これは私だけでの感想ではなく、日本に住むペルー人の友人や、南米に滞在したことのあるスペイン語の恩師も同じようなことをおっしゃっていた)
しかし、沖縄には独自の文化や社会があるわけで、私自身がこれから”沖縄”にどのように接していけば良いのか,どのような内容・構成にするのかと考えるが、それでも私の心の中の”沖縄”を探り、表現していきたいと思う。
このHPを作成する上で素材を使用させていただいたサイト「Okinawan Style」と「Marry's Textiles」にお礼を申し上げます。